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このスーパーの陳列が神がかってる件。 | TweetPhoto
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Искусство на дорогах » ZizA.rU

(via harax)

ずっと被害やいじめに遭ってきた人は、いじめや被害を与える人、特にそれが親だったりすると、当の加害者には攻撃を向けません。向けられないのです。攻撃を向けると返り討ちにあいますから、もっと心と体が傷ついて痛いし、それ以上に、情緒的な依存対象でもある相手が自分を憎むようになっては寂しくてしようががないので、我慢をします。
そのかわり、その攻撃を、もっと弱いもの、安全なものへむけます。弱いものというのは、自分の小さい弟や妹、あるいはペットです。金魚やザリガニは殺しやすいけれど、慣れてくると、犬を殺し、猫をいじめます。自分のところの猫を殺してしまうと、近所の猫をねらったりする。

それから次に狙うのは、自分にとって優しい人、あるいは職業上、やさしくならなければならない人だと思っている相手です。たとえば、児童ケアの専門家・カウンセラーを、人が見ている前でいいようにいたぶります。優しそうな先生にも矛先を向けます。ですから、虐待された子供のケアは楽なものではありません。

これは別に珍しいことではありません。
外傷体験を持った人が、加害者に向けるべき怒りを、自分に好意を持つ人(安全な人)に向ける事を外傷性転移と言います。当初、怒りが噴出し始める時にその対象になるのは、依存や信頼を向ける相手です。この人ならわかってもらえる、あるいはわかってもらいたいという人に怒ります。怒れば反撃してきそうな人には、怒りを感じる前に恐怖してしまう人々なのです。

外傷性転移 (via zokuzoku) (via ssbt) (via 1co, kazukij)
2009-07-31 (via gkojay) (via masaka) (via uncate) (via ssbt) (via gatya) (via kml) (via twinleaves) (via yaruo)
「一度くらい失敗したっていい。それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるんだぜといえることのほうが大切さ」

基礎代謝は、1日の全消費カロリーのうちの
60~70%に過ぎません。

1350kcalの基礎代謝があるのであれば、
一日の消費カロリーは、2000kcalぐらいはあることになります。
なので、そこまで頑張って食事制限する必要はないです。

食事に関してなのですが、
体重を落とすコツは、常識とは逆のになってしまうのですが、
総摂取カロリーのうち、炭水化物の量を増やすと、
体重は落ちてきます。

アメリカで、炭水化物だけで、4800kcalを食べさせ、
どれぐらい体にたまるのか、という実験が行われました。
その結果、体にたまったのは、たったの150g(1000kcal分)
でした。

その人は平均的な体格と生活習慣の持ち主だったので、
一日の消費カロリーは2千数百kcalぐらいと思われます。
約2000+1000=3000
残りの1800kcal分は、便などで、
体の外に出てしまったのです。

最近の養学では、
体にたまりにくい炭水化物を増やし、
体にたまりやすい脂肪分(肉類に多く含まれる)
を減らすようにすれば、体重は落ちるというのが、
定説になりつつあります。

なので、総摂取カロリーのうち、
炭水化物を増やすようにしてください。

あと、飲み物を温かいものを取ると効果的です。

基礎代謝は、体温が1度上がると
12~13%高まるというデータが出ています。

そのため、温かい飲み物を飲むだけで、
消費カロリーは増えていきます。

あとは、ウォーキングで、血行をよくして、
体調を整えながら、お医者さんの言う、
スクワットなどのトレーニングしていけば、
自然と体重は落ちてくると思います。

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(via harax)

植物状態の人と、今日も会う。

仕事で。

ナースでぇーす☆命救ってまぁーす☆

って昨日の合コンで言って、「実演!」なんつって脈を測るふりして手を握ったりして、

すごい楽しかったその翌日に、真顔でここにいて、本気で脈を測っている。

その脈はとても規則正しく、きれいに打っているけど、

目の前の人は、目も開けない。いや、たまに半目。なんの意識もない。

何も喋んない。何も食べない。自分で息すらできてない。

人工呼吸器の一定の吸気排気のリズムと、心電図モニターの音と、たくさんの点滴がぐるぐると彼を囲んでいる。

その人は、私の彼氏でもなければ、親御でもない。ただの一期一会。私はこの人を知らない。

ある日、玄関で倒れた。脳出血だったみたい。

1人暮らしで、家族はいなかった。地方から1人出てきて、兄弟からも絶縁されていた。

色々な機関をあたって、やっと連絡先を見つけて連絡を取った家族

「いやぁ~あの~」を100回くらい要所に挟みながらも、

つまりは「死んだら、連絡ください」

ということを言った。

可哀そうとは、思わなくなってしまった。もう。

人生のその瞬間だけを見て、ドラマのように「ひどい、可哀そう」とは思わなくなってしまった。

本当に色々な人生が人にはあって。

長い長い色んな積み重ねの中で今、その言葉があるってことを、いっぱい見てきた。

仕方ない。

脈は正常。

呼吸は一定。

でも植物状態

家族は全てを病院に任せた。

生きてても、死んでても、なんでもいい人。

主治医の興味はどんどん薄れて、そっと、その人は、そこにいるだけの人になった。

愛されて愛されて、抱きしめられて、見舞いも何人もくる患者さんの横で、

静かに、ピッ・・・ピッ・・・と彼の心電図モニターの音が響いていた。

この人は、生きているのだろうか。

この人は、死んでいるんじゃないか?

もうほとんど死んでいるんじゃないか?

脳死とかドナーとか命のリレーとか、そういうの見聞きするたびに、

私は見失う。

命ってのは何で、臓器ってのは何で、この人は何で。

血圧が少し、安定しない夜があった。

私は医師に報告した。

血圧を上げる薬も、下げる薬も、たくさんあった。

でも医師は、「んー」を何度も繰り返し、私を静かに諭すように、

自然に看取ってあげよう」と言った。

死っていうのはさぁ~

医療の敗亡じゃないんだよぉ~

むしろね、むやみに色々やることのほうが~

かえって人間尊厳を奪い~

人間らしさを奪う行為にぃ~

「美しい」と思う。そういうのって。

美しいし、わかりやすいし、とても満ちているって思う。言葉で聞くと。文で読んでも。

人間らしくないよね。機械につながれて、点滴チューブに囲まれて、ただ延命されてる。

しかも誰一人、「この人を助けて」って人もいないわけで。

うん。

うん。

うん。

先輩にそう伝えると、「うん・・・」

後輩にそう伝えると、「はい・・・」

私たちは、そうして、彼のカルテを閉じた。

その日、たまたま飲みに行って、うまいうまい言って煮物を頬張りながら、

全然違う話をしてたのに後輩が、

「でも、なんか今日、いつもより顔色良かったですよね」

と、言った。

「あの人さー、髭はえる速度、超はやくないー?

 私、朝そったのに、夜もうボーボーだったんだけどー」

と先輩がクスクス笑った。

手を、彼の手を、握ったことがない看護師はいない。

毎日、毎勤務、私たちは欠かさず、彼の手を取り脈を測る。

彼の名前を耳元で呼び掛ける。

体を吹く。

腕を取り、足を抱えて、抱きしめるかのように、体位をかえる。

毎日毎日熱を測って、熱のある日には氷枕を、熱が下がればそれを枕に。

汗をかけば、タオルでふいて、髭をそる。爪を切る。

そんな中で、「あれ?今日、顔色いいな」って日がある。

「あれ、今日苦しそうだな」って日もある。

毎日、毎時間、違う。

脈も血圧もタンの量も、すこしずつ違う今日がある。

どんだけ機械に囲まれようとも、管に絡まれようとも、

この人を、人間らしくないなんて思えたこと一度もない。

わかっていても、目の当たりにすると脳死は人の死だなんて思えない。

生きているとしか思えない。

意識がないことなんてちっぽけなことなくらい、

今ここにある命が圧倒的すぎて、

命すげぇーって思って、

死んでく人もたくさんみるからこそ、

もう生きてると死んでるじゃ、全然違って、

「人として生きてるとは言えない」って言葉が薄っぺらに感じるくらい、

ただもう、ただもう、命があるってことがすごい。問答無用に。命がすごい。

学生の頃は「病院で死ぬということ」を読んで感銘を受けて、

人間らしく生きるとは~!なんて必死だったけど、

人間なんて、どう生きたって、人間らしくしかならないわけで。

法律とか、もう色々あるんでしょうけど、

その時代時代の雰囲気で変わるものの上に乗せてしまっていいのかと思うくらい、

今、現場で、毎日見つめる命というものは、すごい。すごすぎる。

脳死という問題があり。延命という問題がある。臓器という問題もそこをウロウロしている。

命のリレーと言われたり、死待ちの医療と言われたり、枯れ木に水と言われたり。

でも、今、その命の目の前に立ったとき、何も正解を言えない自分がいる。

植物状態の人と、今日も会う。

明日明後日も、やっぱり会いたいと思っている。

数年前に学生を行事として山村(山形は基本山村が多いが)に連れて行ったことがあった。当時、うちの職場は、地方短大にお決まりの「地域との連携」をお題目にして、やり方はよく分からないけれど地域と連携ってこういう感じ?と模索しつつ、なんとなく「地域おこしに付き合うこと?」みたいな空気に押されていた。フィールドワークごっこをやりながら、形だけでも地域に提言することを試みた。ある教員が指導したグループが、地域の人達の前で「この村に足りないのはコンビニやデパートだと思う」と結論づけた発表をした。その山村は自然を生かしたいろいろな地域おこしに「先駆的に」取り組んでいる場所だったので、それを全く理解しない学生の発言に地域の人達はほとんど呆れ、途中で席をたった人もいた。あきらかに指導不足という感じに、その時は読み取れた。その村は、離れた市街部にあるコンビニやデパートに若者を持っていかれてほとんど限界集落の体裁をなしており、しかしそうした市街部の持つ価値を逆転するような形で地域おこしを行っているのだった。村の人達が怒るのは無理はないだろうと思ったし、その指導に疑問を持ったりもした。

もしこれが、地域の四年制大学の、よくできた学生だったらどうしたろうかと思うに、きちんと空気を読んで、自然を生かした企画をたててみせたろうにちがいない。僕らもそういう指導が学生に行われるだろうと思っていたし。そうすれば村の人達にはきちんと認めてもらえて、ある種のラポール構築が滞りなく行われ、それからの付き合いに役立っただろう。僕らの職場はその最初に小さくつまづいてしまった(その後、色々ありながらきちんと関係はつづいているが)。

しかし一方でずっと引っかかっていたものもある。それは、でもやっぱりコンビニやデパートがないから若い人はいなくなっちゃったんじゃん、という現実だ。短大生の声はその現実をするどく、というかバカ正直に突いていた。そのことの重みはあるだろう。ラポール構築のために、友好的な関係づくりのために提言はできなかったけれど、それを仮に「教育の行き届いていない声」「礼儀ができていない声」と切り捨ててしまうと、もしかしたらその場はずれな提言を契機としたコミュニケーションが消されてしまったのかもしれない。もちろん、そのバカ正直な提言をもっと巧妙に、人の心をつかむ企画レベルに練り上げさせるのが教員の仕事だった。きちんとコミュニケーションの現場を用意できなかった教員の責任もあるだろう。が、そういう責任論ではなく、また分かりやすい地域おこしとの連携でもなく、教育の現場と地域が連携できるとしたら?少なくともバカ正直な声を、すくいあげることは、相互に意味があるのかもしれない。

暴論かもしれないが、地域と教育の連携とは、連携ごっこのためのラポール構築や、あるいは教員の業績稼ぎなどか背後にある、何かやったような気になれるもののほかに、相互行為の〈いま―ここ〉性を重視した語りの場を、きちんと見据える必要性があるように思う。それをやらないうちは、結局、地域と教育が共犯関係になって、既存の制度・やり方を強化して行くことにもつながってしまう。そんなのは主体性がないまま文科省の言うなりになる、「官蓄」とおんなしだ。そうでないためには、地域も教育も、どちらも相互行為の意外性や多様性のなかで変容しうるものなのだという認識を出発点とした取り組みが必要なのかもしれない。